「仲間とともに成長できる会社で
私たちと関わるすべての人を
笑顔にしたい」
アールアイ株式会社 齋藤 一博
- アールアイさんにくると、
なんか元気をもらえるんですよね -
会社を訪問した銀行の支店長さんから、そんな言葉をかけてもらったことがあります。今でこそ、「アールアイは元気な会社」、「社員が明るく気持ちのよい会社」というイメージが定着してきましたが、先代の父から経営のバトンを渡された当時は、業績は好調だったものの、社員の入れ替わりも激しく、組織としては機能不全を起こしていました。自分自身、経営に対するビジョンも持ち合わせていませんでした。
- 社長が変わることで、
社員が変わる -
自分の心と向き合ったことで、父から受け継いだ会社を自分らしく経営できるようになったと感じています。社員とともに仕事をすることが、とても楽しくてなりません。
「この会社を選んでくれて、ありがとう」
ともに働く社員一人一人には、感謝の念しかありません。社員がイキイキと働き、皆さんにパワーを与えられる存在になれたら最高です。
私が、どのようにして自分なりの会社経営を見つけることができたのか、
経営にも興味のなかった私がなぜ会社を継ぐことにしたのか――。そこには、3つの転機がありました。
2代目社長が「自分の経営」を見つけるまでの3つの転機
当社は1980年に「東京アールアイ」として設立されました。私が2代目社長に就任したのは2008年のことです。私たちと関わるすべての人々が笑顔になれる――それが、私の経営者としての目標です。社員が成長できる会社であり続けることも、ミッションと考えています。
「アールアイさんにくると、なんか元気をもらえるんですよね」
会社を訪問した銀行の支店長さんから、そんな言葉をかけてもらったことがあります。今でこそ、「アールアイは元気な会社」、「社員が明るく気持ちのよい会社」というイメージが定着してきましたが、先代の父から経営のバトンを渡された当時は、業績は好調だったものの、社員の入れ替わりも激しく、組織としては機能不全を起こしていました。自分自身、経営に対するビジョンも持ち合わせていませんでした。
そんな私が、どのようにして自分なりの会社経営を見つけることができたのか、経営にも興味のなかった私がなぜ会社を継ぐことにしたのか――。そこには、3つの転機がありました。
バイタリティにあふれ、面倒見のよかった先代の父
創業者で、私の父でもある齋藤功一は起業家精神に富み、運送業、建設業、建設機器リース業などの事業も手掛けてきました。時代の風を読む力に長け、時代が要請するサービスや製品を提供しながら、最後にたどり着いたのが吊り治具リース業でした。父は強い信念と旺盛なバイタリティで会社を引っ張り、やや強引な面はあったものの、面倒見がよく「斎藤功一と仕事がしたい」と言ってくれる人は、一人や二人ではありませんでした。
多忙だった父とは、子どもの頃に一緒に遊んだ記憶はほとんどありません。家族旅行に出かけても、私たちを目的地まで送り届けると、また仕事へ舞い戻るような具合でした。それまでの無理がたたったのか、心筋梗塞で倒れたこともあります。生きるか死ぬかという危機的な状況に陥りましたが、半年の療養生活を経て、仕事に復帰しました。その姿に、今になって感じるのは、会社と家族を守ろうとした父の強さです。
高校時代から自転車競技に熱中。実業団でも活動
私は4人姉弟の長男で、子どもの頃からまわりの人たちに「2代目、2代目」と言われて育ちました。しかし、私自身は、父の仕事にも会社経営にも関心がありませんでした。
父の口から「会社を継いでほしい」と言われたことも、一度もありません。
私の心をとらえていたのは自転車競技です。高校で自転車競技部に所属すると、その面白さにすぐに夢中になりました。部活とは言うものの、部員はそれぞれクラブチームに所属。私のクラブは、少人数ながら毎年全員がインターハイに出場するほどの強豪チームでした。
朝は4時に起床し、都内の自宅から埼玉まで自転車で往復してから登校。放課後はすぐに練馬のクラブチームへと向かい、ひたすら走る。週末は、山梨まで走り込みました。練習は過酷でしたが、その成果でどんどんと勝ち進めるようになり、インターハイにも出場しました。仲間と一緒に上を目指すことも楽しくて仕方がありませんでした。
卒業後は、大阪の実業団に入団しました。実業団名簿に掲載された企業に片っ端から電話して、自分を売り込み、その中で、「来てください」と言ってくれたのが大阪の実業団だったのです。しかし、思うように結果が出せず、もっと広い世界で修行がしたいと考え、ヨーロッパへ行くことを決心しました。
その資金を父に出してもらおうとした矢先、東京アールアイの前身だった会社が倒産してしまいました。
「カズ、会社をつぶしたよ」
父から初めて会社の話を聞かされたのが、この言葉でした。どん底の状況だったにも関わらず、私はあろうことか、「ヨーロッパで修行したいので、お金を出してください」と申し出たのです。家計も火の車だったろうに、父は「いいよ」と快諾してくれました。今にして思えば、会社を潰すという事が経営者にとってどれほどつらいことだったでしょう。父の心境を察することもできなかった自分が、情けない限りです。
ところが、渡欧を前にした大会で転倒し、大ケガを負ってしまいました。手術後にはリハビリが待ち受け、ヨーロッパ修行も諦めざるを得ませんでした。
競技中のケガでリハビリ生活に。
会社の電話番を引き受けたことが、1つ目の転機に
やむなく大阪から実家へ戻りました。あるとき、「リハビリ以外にすることがないから、会社の電話番をしてくれるか?」と、父から声をかけられました。吊り治具リース業で東京アールアイとして再出発したところで、忙しくて息子の手を借りたかったのかもしれません。あるいは、自転車にも乗れず所在なげに家にいる私を気遣ったのか、はたまたこれ幸いと会社へ引きずり込もうとしたのか、今となっては確かめる術もありませんが、
電話番を引き受けたことが、一つ目の転機となりました。
結果的に、会社を継ぐきっかけとなったのです。
それから仕事に追われる日々が始まりました。父は、今も主力製品として活躍する『マイティシャックルエース』の売り込みに奔走しており、仕事は電話番だけではすまず、様々な仕事を言いつけられました。
リース製品の配送、引き取り、メンテナンス、営業への同行、吊り治具を学ぶためにメーカーで研修も受けました。そのうち、父は得意先で「こんなものがないかな」と相談されると、「はい、わかりました」と二つ返事で引き受けて来て、私に吊り治具の設計を任せるようにもなりました。
父の仕事への姿勢は厳しく、肺炎になりかけて休んでいた日に、「大事な打ち合わせがあるから来てくれ」と言われ、咳き込みながら出社したこともありました。突然、「一緒に銀行に行ってくれ」と言われ、保証人の意味もわからないまま、融資の保証人となったこともあります。
いつか実業団に戻りたいという思いを抱えていたものの、頭も体も毎日フル回転で、自分の進路について深く悩む余裕はありませんでした。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰宅するという日々。1年が経った頃には、私が抜けたら会社が回らない状態になっていました。いつしか実業団へ戻ることも諦めていました。
しかし、こうした仕事の一つ一つが貴重な経験となり、私の血となり肉となりました。アールアイの経営者として必要なことを、すべて実戦で教わったのです。今や製品のラインナップでは業界一と自負していますが、吊り治具の企画・プロデュースができるようになったのも、父の“むちゃ振り”のおかげです。ただ、父に守られながら仕事をしていたことに気づくのは、だいぶ後になってからです。
私は次第に、「この会社を他人に渡したくない」と思うようになりました。「この会社は父が命懸けで築き上げてきた、一番大事なものなのだ」と、心の奥で理解していたからかもしれません。
一方で、会社に対しては卑屈な感情も抱えていました。社員の入れ替わりが激しくても、「中小企業なんてそんなものだ」と思っていました。当時の私に、社員の心を慮る余裕はありませんでした。専務という立場だったにも関わらず、社員とのコミュニケーションの大切さに思い至らず、「社員と話しても、どうせ愚痴を聞かされるだけ」と考え、飲み会や社員旅行なども仕事にかこつけ、なるべく遠ざけていました。
当時の私は孤独でした。必死に走っているけれど、誰もついてこない。とはいえ、人に任せることもできず、何でも自分で抱え込んでしまう。スケジュールに余裕のない業務は率先して受け持ち、休憩も休日も返上で働くのに、社員の口から出てくるのは不平や不満ばかり。仕事に不備があれば、父から指摘を受けるのは私です。上と下の板挟みに苦しんでも、相談する相手もいません。次から次へと押し寄せる仕事に立ち止まる暇はなく、感情を押し殺して、ただがむしゃらに働く自分は、さながらロボットのようでした。
2つ目の転機は、予期せぬ父の死
そんなときに、二つ目の転機が訪れます。父の突然の死です。
もしかしたら、父は人生の終わりを見据えていたのかもしれません。亡くなる前年の3月のことです。唐突に「4月からおまえを社長にする」と、父が告げたのです。心の準備もなければ自信もない私は、「無理だ」と断りましたが、まったく意に介してくれませんでした。その後、父は現在の地に会社の移転も決め、銀行に掛け合い、資金も調達してきました。私にはそんな大きな決断はできなかったと思います。
こんな事もありました。ある日、自宅近くで撮影をしているカメラマンを見かけ、「俺を撮ってくれ!」と、声をかけたのです。勢いに押されたのでしょう。カメラマンは不躾な依頼を受けてくれました。父はスーツに着替え、自宅の庭でフレームに収まりました。それが遺影となりました。
唐突な社長交代発言から1年後、全ての段取りを整え、父は旅立ったのです。一人取り残された私は、「このままでは、会社は潰れてしまう」「何かを変えなければ」と、強い危機感を覚えました。
そして、経営について一から学び直しました。経営計画書の作り方を知ってからは、銀行から融資を受けるための計画を立て、予算の策定にも積極的に関わるようになりました。自分を変えるために心について学び、自分の心と向き合い、考えや言動、感情を観察するという「内省内観」にも取り組みました。生まれて初めて自分の心と本気で向き合うと、それまで意識しなかった深い想いに出逢うことができました。
自分は一人だけで行動していたこと
自分が自分を信じていなかったこと
人を信じることができなかったこと――
そして、自分を許してもいい。みんなを頼ってもいいと心から思えた時、肩の荷が下り、心の中が満たされていくような感覚に包まれました。
孤独だった私が、社員から差し延べられた手を取った――
それが3つ目の転機
そうすると、不思議とこんな出来事が起こりました。
ある日、どうしても私がクレーム対応に行けず、途方にくれていると、「私がいきます!」と、常務がさっと手を挙げてくれたのです。そのときわき上がったのは、「行ってくれるんだ!?」という驚きの感情でした。それと同時に、「あぁ、自分は一人じゃなかった。社員に任せてもいいんだ」と、はじめて心から思えました。社長に就任してから10年目のことです。
社員たちは、これまでずっと側で支えてくれていたはずなのに、私が受け入れることができていなかったのです。
これが3つ目の転機です。
何でも自分で抱え込んでいた私でしたが、そのことがあってから、社員を信頼し、仕事を任せられるようになりました。すると、社員にも責任感が芽生え、イキイキと働くようになりました。
土曜日に自主的に出社する社員も出てきました。「自分たちの会社は自分たちで守っていく」という主体性を持ち始めたのでしょう。「すべての責任は自分にある」という姿勢も感じられるようになりました。自分に責任を持つことは、自信につながり、引いては企業の信頼にもつながっていきます。まさに「社長が変わることで、社員が変わる」ことを実感しました。
二代目経営者としての経験を伝えながら、社会に貢献する企業を目指す
3つの転機を経て、自分の心と向き合ったことで今、冒頭のように、父から受け継いだ会社を自分らしく経営できるようになったと感じています。社員とともに仕事をすることが、とても楽しくてなりません。
「この会社を選んでくれて、ありがとう」
ともに働く社員一人一人には、感謝の念しかありません。社員がイキイキと働き、皆さんにパワーを与えられる存在になれたら最高です。
自分の経験を踏まえ、2代目、3代目の経営者の方々に伝えていきたいことがあります。それは、次の二つを自問自答することです。
「自分はどのような経営者として生きていくのか?」
「どのように会社を愛して、社員を愛していくのか?」
創業者は、自分のあるべき姿について明確なビジョンを持っているものです。2代目、3代目は、創業者のビジョンに隠れ、「自分がどうなりたいのか」を深く追求していない人も多いのではないでしょうか。私自身、長い間、先代との間に温度差を感じてきました。2代目、3代目の経営者に自問自答を促していくことが、たくさんの会社の繁栄、社会の繁栄、そして日本の繁栄へとつながると信じています。
これからも、私たちと関わるすべての人々に、ヒントやきっかけを与える会社でありたい。困っている人に、手を差し伸べられる会社でありたい。そんな想いを胸に、社会に貢献する企業を目指していきたいと思います。
そして、同じ想いを持つ企業の輪を拡げ、より多くの人たちが楽しく成長しながら働ける世界へ発展していくというビジョンの実現ために邁進してまいります。
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